2017年03月30日

「滝の慈眼寺」しだれ桜  平成29年3月30日

漸く少し暖かくなったので、近くのしだれ桜で有名な「滝の慈眼寺」の様子を見に行ってみた。

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いつも慈眼寺で一番勢いのある東側の駐車場のところのしだれ桜は咲き始めだったが、境内のしだれ桜は満開。

夜はライトアップもされるようだ。

慈眼寺は、群馬県高崎市下滝町にある。
県道24号高崎伊勢崎線を高崎に向かって関越自動車道を潜り少し行った常慶橋手前の左手南側。県道から本堂裏の林が見えるので目印になる。
関越自動車道高崎インター方面からは、県道13号を南下し常慶橋手前の信号を左折してすぐ右手南側。
この時期は、平日でも駐車場がかなり混雑する。
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2014年04月04日

枝垂れ桜「滝の慈眼寺」   平成26年4月1日(火曜日)


お袋さんを連れて、枝垂れ桜で有名な「滝の慈眼寺」へ行ってきた。

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なかなか暖かくならなかった所為で開花がやや遅れていた「滝の慈眼寺」の枝垂れ桜が今満開だという情報を聞き、漸く暖かくなったこともあり、お袋さんを久しぶりの散歩に連れ出した。

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やはり平日にも関わらず大勢の花見客がいた。
駐車場に停めようとするクルマは、出ていくクルマを待つような状態。 福島県ナンバーなども見られた。
「滝の慈眼寺」も有名になったものだ。

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この慈眼寺の枝垂れ桜は、元々は「少将桜」という、前橋城主酒井少将阿波守に纏わる伝説が残り樹齢も250年といわれる桜の老木で有名だったのだが、今年もその「少将桜」が見つからなかった。
以前は、柵で囲われ「少将桜」の看板もあったのだが、見当たらない。
もしや枯れてしまったのでは・・・


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駐車場脇にあるこの木が一番勢いがあったような気がする。

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追記) 母は、この年の花見を最後に肺炎で入院しそのまま家に帰ることなく、平成26年11月7日に他界した。93歳だった。
母がまだ元気だった頃は、桜に限らず色んな花や新緑、紅葉などをあちこち見に行っていた。今でも花見などというと、なんとなく母と行ったことがある場所に行っている。

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2012年04月04日

3.11以後 ― 再掲

平成23年度の締めくくりとして、私の所属している「まちづくり塾」で発行した活動報告に投稿した文章をブログに再掲する。

引用はじめ
>    3.11以後                        

東日本大震災と東京電力福島第一原子力発電所の事故から1年が過ぎた。
今、福島第一原発の4号機が大変心配だ。このボロボロに破壊され今にも倒壊しそうにも見える建屋の使用済み核燃料貯蔵プールには1500本以上の使用済み核燃料と未使用の核燃料が貯蔵されている。これが崩壊熱を発生し続けているため冷やし続ける必要がある。
ここで万一、余震等によってこのプールの壁にヒビが入り冷却水が漏れてしまうような事になれば、貯蔵されている使用済み核燃料は冷却不能になり、やがて全て溶けてしまい膨大な量の放射能が何の防壁もなく外に放出されてしまう事態になる。そうなったら日本は「おしまい」だという。
 (小出裕章:4号機燃料プールが崩壊すれば日本は"おしまい"です http://www.youtube.com/watch?v=CezLuBZqd8U&feature=youtu.be )

2011年3月11日午後2時46分ころ、東北地方三陸沖約130kmの太平洋プレートを震源とする巨大地震が発生した。追い打ちをかけるように、巨大津波が東北地方から関東地方にかけて襲った。そしてとうとう、いわゆる「想定外」の大津波が原因とされる東電福島第一原発の大事故が起こる。何重にも備わっていたはずの炉心を冷却するための設備装置が全て機能しなくなりメルトダウンが起きたとのことである。翌12日、1号機が水素爆発。14日には3号機も水素爆発(?)。15日早朝、2号機圧力抑制室付近で大きな爆発音が発生し高濃度放射性物質を含んだ水蒸気が漏れる。同じころ、停止中の4号機でも水素爆発、と拡大した。

この福島第一原発事故の3週間くらい前、米国の原子力技術者アーニー・ガンダーセンは奥さんと散歩中に「スリーマイル島のような原発事故が再び起こるとしたらどこだと思う?」と奥さんに聞かれ、「どこかは分からないけど、米ゼネラル・エレクトリック(GE)社のマークT型で起こるだろうね」と答えていたという。
事故を起こした福島第一原発1号機がまさにGE社のマークT型で、2〜4号機もその改良型だった。
この型の原子炉は何十年も前から欠陥を指摘され使用禁止も検討されていた。出力するパワーに比べ格納容器のサイズが小さすぎる(10分の1)のだとのこと。十分な大きさがあれば炉心溶融によって発生する水素を格納容器の中で再燃焼させ、炉内の圧力を下げることができる。しかし、価格を抑え競争力を高めるため、格納容器を小さくしベント用のバルブを設置したとのことだ。
 (「途方もない「フクシマ」の潜在リスクと日本の未来」(朝日ジャーナル)、 Arnie Gundersen:日本政府は東電を守る事を最優先し国民を守るのは二の次 http://www.youtube.com/watch?v=kjqWOGijRLU )

そもそも日本への原子力発電の導入には米国の、原子力の「平和利用」を奨めなんとかして日本人の核兵器に対するマイナスイメージを払拭しようという意図があった。
一方、当時の日本政府には「平和利用」という大義名分の下で原子力開発を進め核兵器開発能力を育成保有し、なんとか再び一等国の仲間入りをしたいという願望があった。
原子力の「平和利用」を謳った原発の日本への導入はこういった両国の思惑の合作だったのだ。
 (小出裕章:総括原価方式 / 核兵器開発能力保有 http://www.youtube.com/watch?v=TR7J4YB7G9U&feature=related)

ではいったい原子力発電とはどのようなものなのだろうか。
ご承知のように、原子力発電導入以前から火力発電というものがあった。これは石炭や石油、ガス等の化石燃料といわれる物を燃やしてお湯を沸かし高温高圧の蒸気を発生させ、その蒸気をタービンに導き発電機を回転させ電気を作りだしている。原子力発電は、原子炉内で核分裂を起こしその際発生する熱でお湯を沸かしている。なんのことはない、科学の最先端の原子炉といえどもお湯を沸かしていることに変わりはないのだ。両者とも古い技術の蒸気機関の仲間だ。原発は、たかがお湯を沸かすにしては、使われる理論や技術、設備が大げさ過ぎではないだろうか。
その上、原子力発電は効率も良くない。膨大な熱が無駄になっている。現在一般的といわれる出力100万キロワットの原子炉では3倍の300万キロワットの熱を発生させ200万キロワット分の熱は1秒間に70トンの海水の温度を7度上げて海に捨てている。京都大学原子炉実験所の小出裕章さんは原子力発電を「海温め装置」だと言った恩師の言葉を紹介している。海を温め→地球温暖化?

さらに、原発を稼働させた後には、燃料となったウランが元々持っていた放射能を約一億倍にも膨れ上がらせた核分裂生成物=放射性のゴミ(死の灰)が大量に出てしまう。日本は現在、この放射性廃棄物を3万〜4万トン、広島に落とされた原爆120万発分にも相当する量を保有している。これが青森県六ケ所村の再処理工場や全国の原発敷地内に置かれている。そして、原発の稼働が続く限り増え続ける。
 (「核のゴミを処理できない人類に原子力という選択肢はない」小出裕章 (朝日ジャーナル))
この厄介なゴミを最終的にどう処理するか決まっていない。この放射性のゴミは生物にとって無毒化するまで10万年単位でどこかに安全に保管しなければならない。高レベル放射性廃棄物にいたっては100万年というとてつもなく長い期間お守りをしなければならないという。
因みに、地球上に最初の人類「猿人」が出現したのがおよそ700万年前、さらに200万年前には原人が出現し、その後進化や絶滅を経て現在の我々と同じグループに属する「新人」が誕生したのが20万年前とされている。

原発を推進する人たちは年間50ミリシーベルト以下の被曝は問題ないと主張してきた。
被曝のリスクについては、米国科学アカデミーにあるBEIR(電離放射線の生物学的影響に関する委員会)が2005年にBEIR Zという報告を出し、「利用できる生物学的、生物物理学的なデータを総合的に検討した結果、委員会は以下の結論に達した。 被曝のリスクは低線量にいたるまで直線的に存在し続け、閾値(しきいち)はない。最小限の被曝であっても、人類に対して危険を及ぼす可能性がある。」と結論付けているとのことだ。(「原発のウソ」小出裕章)
どんなに低線量の被曝であっても人間にとっては危険だというのが、どうも現時点での科学の到達点のようである。

昨年は計画停電があった。しかし、電力は、全原発を即刻停止しても足りなくなることはなさそうだ。原発は、出力の上げ下げを頻繁に行うと不具合が出てしまうため常にフルパワーで稼働している。そのため他の発電方式の発電所はその供給能力の半分も働いていないという。
原発を停止しその分火力発電所で化石燃料を燃やすと二酸化炭素の排出が増えてしまうという人がいる。しかし、二酸化炭素は生物にとって絶対に必要なものだ。それに引き替え、放射能を絶対に必要とする生物が果たして存在するだろうか。二酸化炭素地球温暖化主因説も疑わしい。原子力発電のコストも、原子力ムラが公表しているほど実は低くはなさそうだ。(大島堅一立命館大教授他)
再生可能な自然エネルギーでの電力の安定供給が軌道に乗るまでは火力に頼るしかないだろう。幸い火力には、天然ガスを燃料とする高効率のガス・コンバインドサイクル発電もある。

昨年、福島第一原発事故をニュースで知った時には背筋が寒くなり心拍数が上がってしまうほどの恐怖感に襲われた。その感覚が今でも僅かに残っている。晴れ晴れとしない。
地球規模で影響が拡大する大惨事を経験した3.11以後の我々にはエネルギー消費の在り方を初めとする一人ひとりの生き方そのものの見直しという大変難しい課題が突き付けられたと思う。
また、2009年の政権交代前後からの状況とりわけ今回の大震災、原発事故の報道を通し、情報は自ら能動的に取得しそれを選り分け真実に肉薄していく力が非常に重要だということも身に染みて分かった。これからは、そんなことをもまちづくりに反映させていかなくてはならないと思う。

〜引用終わり
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2012年01月02日

謹賀新年

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明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い致します。

タグ:元旦
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平成23年度「新酒を味わう会」

昨年の暮れ、12月17日(土)、町八幡宮参集殿において「新酒を味わう会」が催された。


それに先立って前日、酒林を作った。

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早速お店の前に飾った。
やや大きかったか。小さく刈り込むのが大変なのだ。

今年は、当日も朝から2個作り、都合3個も作った。
酒林作りも大分手際が良くなってきたとはいえ、2日間にわたって3個はちと大変。
杉の葉の量も半端ではない。


「新酒を味わう会」の方は、来賓のご挨拶に引き続いて、酒蔵の奥様の乾杯の音頭で始まった。

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肝心のお酒の出来栄えの方は今年も良く、大変美味しい。


しかし、今年の「若水」の栽培には殆ど協力できなかった。

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2011年12月03日

まちづくり塾有志視察 ― 富岡市

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11月2日(水)、古い民家を改造して地酒やお土産を売っていたりランチが食べられたりして、富岡製糸場前の通りの活性化に一役買っている素敵なお店があるというので、まちづくり塾有志で富岡市へ視察に行ってきた。

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昼食までには時間があるし、せっかくなので男二人は富岡製糸場を見学する。

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明治5年(1872)竣工の繭倉庫は「木骨(もっこつ)レンガ造(ぞう)」と云い、屋根の重量は柱と梁で支えていてレンガの壁には屋根の重量が掛からない構造のようだ。

レンガの積み方は、一段に長手と小口を交互に並べ次の段は長手に上に小口がきて小口の上には長手がくるようにして積み上げる所謂「フランス積み」。
実は、「フランス積み」という言い方は誤りで、正確には「フランドル積み」、あるいは「フレミッシュ積み」というのだそうである。
一方、「めがね橋」として知られる、明治26年(1893)竣工の旧国鉄信越本線「碓氷第三橋梁」はイギリス積みである。
そして、一般には明治20年以降になるとフランス積みは見られなくなると言われているが、明治20年以降の建物にもフランス積みが意外と多く見られるとのことである。


柱に使われた杉材は妙義山から、梁に使われた松材は中之条の山からそれぞれ切り出されたものとのこと。
松は、中之条の山から切り出したものを吾妻川に流し、利根川に出たところで筏に組み下流の玉村町五料まで下り、そこから陸路を富岡まで運んだとのことである。

運搬経路を地図でみると、南の山地を避け東へ大きく迂回している。
明治初期のことだから、現在考えられるのとは運搬手段も違えば運搬経路も大きく異なっている。
もしかすると、現在トラックで運ぶにしても、あれだけ大きな木材になると広い道路を選んだ経路を取り、やはり大きく迂回しなくてはならないかもしれない。


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繰糸場の小屋組みは、梁の中間に柱がなくても屋根の重量を支えて広い空間を確保できるヨーロッパ建築のトラス構造となっている。
また、陽の光りを反射し工場内を少しでも明るくする目的で、梁その他の部材は全て白く塗っているとのことである。


実は、見学した後、案内して頂いたボランティアガイドの方に、われわれのガイドの参考にお話を伺おうと声を掛けさせて頂いたところ、お顔を忘れてしまっていたのだが、以前まちづくり塾のイベントの時にわが町に来て頂いてオカリナの演奏をして頂いたことのある方であった。


まち歩きやショッピングをしていた女性陣と合流し、最初に書いたお店でランチを食べる。

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今回は寄れなかったが、斜向いには、やはり古い民家を改造した洒落たカフェもある。

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このほか自家製のトマトジュースも頂き、満腹になった。・・・ところで、
お店の女将さんに促され、男二人は再び製糸場へ行き繭花アート展を見る。
これが素晴らかった。
ちょっと繭がもったいないような気もするが、そんなことを吹き飛ばすほど繭で作った花は見事だった。
引き返して見る価値は充分あった。


古い空き民家の利用法が勉強できたり思いがけない人にお会いできたり有意義な視察であった。

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平成23年度「燈籠宵まつり」

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10月8日(土)、地元八幡宮において恒例になった「燈籠宵まつり」が開催された。

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この催しも、大分町民に認知されてきたのか年々見物客が増えているように思う。


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今年は、楼門の前で雅楽が演奏され雰囲気を盛り上げた。

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タグ:燈籠
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平成23年度地元区主催「まち歩き」

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10月2日(日)、地元の区の生涯学習の一環として「まち歩き」が行われ、われわれまち歩きガイドの出番となった。

予想に反して30名近い参加者があった。


まち歩きをとおして町民として誇れるところも嫌なところも、まずは知ってもらいそこから先、町をさらにもっと誇れる町にするにはどうしたらよいのか考えるきっかけにしてもらう、というのもわれわれまち歩きガイドのねらいだと思う。


主に、例幣使道の旧宿場だった町の中心部を歩きながら、歴史的価値のある古いお宅の建物を説明し、宿場町として賑わった頃の日光例幣使一行の様子や国定忠治に纏わるエピソード、森鴎外の小説に取り上げられている羽鳥千尋さんに関する話などをする。

参加して頂いた皆さんにも新たな知識として興味を持って聞いて頂けたように思う。
これをきっかけにして、町のアイデンティティとしての歴史的建造物や町に関する種々のエピソードに益々興味を持ってもらい、これからのまちづくりにも関心を持ってもらえれば嬉しい。

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2011年10月15日

まち歩きガイド - 群馬DC、JR東日本小さな旅「日光例幣使道探訪記」

9月17日(日曜日)、まちづくり塾ガイド班の一員として、群馬デスティネーション・キャンペーンの一環として開催された、わが町を散策する「日光例幣使道探訪記」と銘打ったツアーのまち歩きガイドを勤めた。

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県内をはじめ関東各地から33名の参加者があった。


やや頑張り多くの回数ガイド研修を重ねてきた「まちづくり塾ガイド班」にとっては、初めての本格的なガイドの仕事となった。

参加者の数も、少ないのではと心配したものの、30名を越え、ガイド班としてもやり甲斐を感じながら案内をさせて頂けた。


このブログにはたびたび書いているが、わが町の中心を東西に貫く国道354号は、旧くは日光例幣使道と呼ばれ江戸時代の正保4年(1647)から慶応3年(1867)まで221年間毎年日光東照宮の春の例大祭にあわせ京都の朝廷からへ幣帛を奉納するために派遣された勅使(例幣使)一行が通った。

毎年4月1日に京都を発った一行は、中山道を経て倉賀野宿から日光例幣使道に入り、当宿には11日の夕刻到着し翌早朝次の宿泊地下野天明(てんみょう)宿へ向け出立した。

日光には、4月15日に到着し、翌16日午前のうちに東照宮に参拝幣帛の奉納を済ませ、昼過ぎには帰路につき通常日光道を南下し江戸を経て東海道を上り帰京した。


慶応4年(1868)、大火に見舞われ街道沿いの宿場中心部はほぼ全ての建物が失われてしまったため、それ以前に建てられ今に残る建物は多くはない。
それでも、宿場の中心には、元は源頼朝によって鎌倉鶴岡八幡宮から勧進建立されたと伝えられる「玉村八幡宮」をはじめいくつか残っており、またその他にも往時を偲ばせる建物や文化財、景観も残っている。

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上の写真は、本陣屋敷跡に残る「日光例幣使参議綾小路有長の歌碑」を見学中のもの。

綾小路有長は複数回日光例幣使を勤めた5人(安永2年・天明5年の阿野実紐、安永9年・天明3年の日野資矩、文政元年・文政7年の高倉永雅、天保8年・天保14年の綾小路有長、弘化元年・嘉永元年の万里小路正房)の内の一人であり、また、往路復路ともに中山道をとった二人の例幣使の内の一人である。
二度(天保8年と天保14年)例幣使を勤めた内二度目となる天保14年(1843)に通常の帰路である東海道を取らず往路と同じ中山道を上った。
この時に帰路当宿本陣で休息しこの歌を残したとされている。

帰路も中山道を取ったもう一人の例幣使は安永5年(1776)の高辻胤長である。


二人の大名が一つ本陣に到着してしまうことを指合(さしあい)というが、例幣使一行と指合った大名は御三家を除き本陣を譲らなければならず、また、道ですれ違う際も大名行列は道の片側に寄り、大名は下乗家中は下乗下馬し道を譲ったという。


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県内街道筋で唯一醸造を続けている酒蔵では、われわれまちづくり塾で育て収穫した酒米で造ったお酒を試飲して頂いた。


つづいて、旧例幣使道を東へ移動しながら町家造りの商家を数軒案内した後、江戸後期の当宿場の絵地図を写した案内板とこの町内6丁目の祭屋台蔵を案内する。

平成21年に建てられたこの屋台蔵には、安政6年(1859)建造との記録が残る大屋台と大正年間建造の新屋台の2台が納められている。

毎年7月の第4土曜日日曜日に開催される祇園祭には、当宿場町の4町内の屋台が運行されている。10数年前から6丁目の大屋台も祇園祭の際に屋台蔵から出し展示されるようになり数年後には町内を運行するようになる。

この大屋台は、運行の際にほぼ一直線の街道を往復するのみという理由からか、京都の山鉾などと同じように舵がなく、進行方向を逆転させる時には車台に乗る舞台を含めた上の部分がそっくり回転するようになっている。

また、この屋台蔵には、旧屋台蔵から引越しする際に旧屋台蔵にあった諸々の町内の備品や道具類の中から見つかった江戸時代の化政文化期の書家、儒学者であった亀田 鵬斎(かめだ ぼうさい)の筆になる幟やその柱を立てる時に使う総欅造りの基台なども展示されている。


街道の一本南側には昔からの道筋や道幅がほとんど変わっていない裏道がある。ここを西へ歩き隣の町内に残る長屋門を見る。


途中、老舗の和菓子店に寄りお買い物をして頂く。


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慶応の大火以前に建造され今に残る数少ない建物のひとつの以前はお酒の醸造元であったお宅を見学。
この建物は江戸時代中期の建造といわれる農家造りで、南側に広く庭がとってあったため大火の際延焼を免れたようだ。
代々名主や問屋を勤めたと言われている。

母屋の西側には、例幣使の一行が宿泊したと伝えられている離れが残っている。


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まち歩きの最後に、町南部の地区から当宿場町の中心に遷座された玉村八幡宮を見学し雅楽の生演奏を聴いて頂く。

玉村八幡宮は、建久6年(1195)源頼朝により鎌倉鶴岡八幡宮から町の南に位置する角渕地区に勧進建立されたと伝えられる角渕八幡宮を、江戸時代はじめ関東郡代伊奈備前守忠次によって当宿場町の基礎となる新田開発がされた際に新田の中心に移築修造されたと伝えられている。

現在は幣殿と拝殿が増築され権現造りとなっているが建立当初は本殿のみであったようだ。室町後期と伝わる三間社流造りの本殿は国の重要文化財に指定されている。

社殿の南に建つ慶応元年(1865)建造と言われている随神門は豪壮な造りで町のシンボルにもなっている。
三間一戸の入母屋造楼門である。
この随神門の建築に携わった大工や彫り物職人の多くは先の6丁目大屋台を建造した職人たちと同一人であるようだ。


アンケートの結果によれば、参加者の皆さんからは概ね良好という評価を頂けたようだ。



おまけ

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やはり日中はかなり暑くなり、まち歩きガイドが終わった後食べたかき氷が美味しかった。

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2011年09月02日

ノロノロ12号台風による豪雨で洪水

四国中国地方をノロノロと横断した12号台風のもたらした豪雨により、1日の未明からわが町を東西に通る国道が川のようになってしまった。

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この洪水により、明治元年建造の我が家は床下浸水してしまった。


数日前から降り続いていた雨が月をまたいで前日から大雨になり、1日未明になってあまりにも強い降り方なので外が心配になり家の前の通りを見てみると川のようになっている。

古い家の我が家は敷地が周囲より低いため土間に浸水している。
慌てて襤褸切れなどで座敷の下に水が入らないようにしてみたものの、どこからか染み出るように入ってきている。
明るくなり道路の水嵩がやや下がってきた頃合を見計らって、仕方がないので箒で水を外へかき出す。
かき出してもかき出してもキリがない。

昼になり近所を見てみると、家の前に土嚢を並べたお宅が何軒かあった。


今回は、幸い利根川も烏川も堤防が決壊するなどということがなかったため、わが町では数件の床下浸水や床上浸水があったくらいで、それほど大きな被害は出なかったようだが、この辺りは過去、昭和22年のカスリーン台風の時に利根川の堤防が決壊し洪水になり、家でも一階の畳を上げ二階に避難したと母から聞いている。

家の辺りは周囲より低く、水路の水はけも悪いため洪水になり易いようだ。

しかし、あんな豪雨はもうしばらく勘弁して欲しい。

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